クマは、被害者でも怪物でもない

クマは、被害者でも怪物でもない

毎年秋になると、ひとつの論争が蒸し返される。飢えたクマのために、人がドングリや柿を山へ運ぶべきか——という話だ。これを実際に続けてきたのが、日本熊森協会、通称「くまもり」という自然保護団体である。彼らは長年、ひとつの主張を掲げてきた。「クマこそ被害者だ」と。

賛同する人もいれば、強く首をかしげる専門家もいる。この割れ方そのものが、私たちがクマという存在に対して抱えている混乱を、よく映している。

「クマこそ被害者」という主張

まず、彼らの言い分を正面から聞いてみる。熊森協会は1997年、兵庫県西宮市で生まれた。環境破壊とクマの減少に心を痛めた中学生たちが、教師とともに運動を始め、卒業後に立ち上げた団体だという。いまでは会員2万人以上、全国に27の支部を持つ。動機は素朴で、切実だ——島国日本にとって、クマが棲む豊かな奥山は水源そのものであり、それを失うことは未来を失うことだ、と。

彼らのロジックはこうだ。戦後の拡大造林や温暖化で奥山が荒れ、クマの食べ物が減った。クマは飢えて、やむなく人里へ降りてくる。それなのに殺される。悪いのは住みかと食べ物を奪った人間で、クマは被害者なのだ——だから彼らは、奥山の天然林を買い取って広葉樹の森に再生し、山に餌を運び、大量駆除に反対する。

ここには、無視できない真実が含まれている。奥山の劣化は実在する問題だし、「駆除だけを続けても、貧しい奥山という受け皿が小さいままでは、凶作のたびにクマが人里へ押し寄せ、永遠のモグラ叩きになる」という指摘は、的を射ている。

それでも専門家が首をかしげる理由

一方で、「どんぐり運び」は20年以上にわたって生態学者や林業の専門家から批判され続けてきた。理由は、前にこの庭で書いたクマの科学とそのままつながっている。

山に餌を足しても、クマの数は減らない。むしろ受け皿を広げてクマを増やし、結果として大量出没の規模をかえって大きくしてしまう恐れがある。しかもドングリの豊凶は樹齢に関係なく広範囲で同調するので、木を植えても凶作そのものはなくならない。善意は本物でも、それが生態学的に正しいとは限らないのだ。

そして、彼らのもうひとつの柱である「クマは本来臆病で、人を襲う習性はない」という説明は、いまや支えにくくなっている。2025年、クマの出没は全国で5万件を超え、人身被害は過去最悪に達した。複数人で歩いていても襲われ、昼間に落ち着いた様子で市街地へ入ってくる個体まで確認されている。「脅かされてパニックになったから襲う」だけでは、説明しきれない現実が広がっている。

二項対立そのものが、罠だ

ここまで来て見えてくるのは、この論争の本当の問題が「どちらが正しいか」ではない、ということだ。保護か、管理か。被害者か、脅威か。可愛いか、怪物か。——この二者択一の構え自体が、問題を解けなくしている。

クマは、可愛い被害者でもないし、襲ってくる怪物でもない。ただ大きく、力が強く、空腹で必死な、一頭の野生動物だ。可愛いと侮るのも、悪魔と見て憎むのも、どちらも相手を見誤らせる。

そして必要なのは、餌を増やすことか、殺すことかの二択ではない。その両方を含んだ第三の道だ。個体数を適切に管理し、奥山を再生し、人里との境界を手入れする——専門家の重心も、まさにそこにある。蛇口を締めるだけでも、受け皿を広げるだけでも足りない。両方を、同時に。

なぜこの論争は終わらないのか

それでも論争が終わらないのは、私たちが「わかりやすい物語」を欲しがるからだと思う。悪役がいて、被害者がいて、誰かを責めれば気が済む——そういう構図を、心が求めてしまう。けれど生態系は、そんな物語を手渡してはくれない。

頂点捕食者だったオオカミを滅ぼした穴から鹿が溢れ、その森でクマの暮らしも揺らぐ。過疎で里山という緩衝帯が崩れ、放棄された柿や、人気の消えた集落が、クマを招き寄せる。「人がクマの住みかを奪った自業自得だ」という贖罪の物語も、「クマは可愛い被害者だ」という保護の物語も、どちらも現実より一段、単純なのだ。本当の責任は、奪ったことよりも、手入れをやめたことのほうにある。そしてその責任は、罪悪感で立ちすくむことではなく、関わり続けるという姿勢でしか返せない。

運ぶべきは、ドングリではなく

だとすれば、奥山へ運び戻すべきなのは、ドングリではないのかもしれない。運び戻すべきは、人だ——あるいは少なくとも、人の関心と手入れだ。住まいを移さずとも、遠くから少しずつ森に関わる。前に書いた「関係人口=土地へのオープンソース貢献」の発想は、ここにも効く。

熊森協会の情熱が本当に正しいのは、たぶん「人がもう一度、奥山に関わり直すべきだ」という一点であって、その方法(餌やり)のほうではない。被害者か怪物かという物語を手放したとき、私たちの前に残るのは、隣に居続けながら境界を保つという、地味で、終わりのない仕事だ。

狼が、里山が、そしてクマが、結局のところ同じことを私たちに告げている。屈服でも、放棄でも、感傷でもなく——手入れし続けること。それだけが、共に生きるということの中身なのだろう。


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