記号性と想像力

記号性と想像力 ― FF7リメイクから考える創作の解像度

創作に関して思ったこと。記号なんですよね。

FF7リメイクの話

最近FF7のリメイクが出てますよね。3部作で、すごくクオリティが高い。精緻に描かれていて、原作へのリスペクトも感じるし、すごく丁寧。すごい技術力ですよね。

一方で、制作費に対して売れてないっていう話があるみたいで。YouTubeで見たから本当かわからないけど、それを仮定して考えてみたい。

僕もFF7がすごく好きなので。小学校の時に原作をやったんですよね。1997年か。思い出補正も入ってると思う。今の子だったら新しい方が面白いと思うし、昔のやつはもうゲームとしてきついかもしれない。

当時のFF7が持っていた力

当時、ゲームに対してすごく希望を持っていた。みんながすごく面白いものを作って、まだ見ぬ希望を持ってクリエイターたち、プロデューサーの坂口さん――FFの生みの親ですよね。

時代性があって、そこにいろんなメッセージが入っていた。今考えるとFF7ってすごいいろんなメッセージが入ってるんですよね。全てが詰め込まれている。宮崎駿監督の映画みたいに、もののけ姫にもあらゆる要素が入っているように。

坂口さんの根底にはガイア理論があって、人間が生きたいようにするのではなくて、地球全体として――「宇宙船地球号」みたいな概念。バックミンスター・フラーから影響を受けたのか、直感的にそう感じたのか、人生体験から学んだのかわからないけど、その理論がベースにあって、それがゲームに込められている。

最初にミッドガルがある。人間が作り出した都市化された社会、資源を吸い尽くして、階級格差があって、空も見えないような囲われた街で暮らす人々。そこからオープニングが始まる。主人公クラウドがそこに出てくるわけですよね。

そしてミッドガルから出るという大きな転機。ミッドガルっていうのは実は世界のほんの一部で、その外にはとんでもない世界が広がっている。北欧神話のミッドガルド――中間の世界、人間の現世。まさにそこで暮らしてるんですよ、みんな。

ゲームというメディアの中に、社会的な影響力がすごくあった。人々の意識が変わったりするほどの。

リメイクより原作の方が「広く感じる」問題

これが言いたかったんですけど、リメイクのFF7をやった時に、すごくクオリティが高くて、めちゃめちゃ作り込まれてるなっていう感じなんだけど、なんかね、正直言って、30年前のプレステのFF7の方が、やっぱり広く感じたんですよね。

描いてる範囲は今の方が圧倒的に広いはずですよ。技術力も高くなって、すごくきれいな世界が広がっている。だけど、以前は歩ける範囲も限られていて、2Dの上を歩くみたいな感じだった。

それでもそっちの方が広く感じる。歩ける場所は圧倒的に少ないのに、それでも広く感じる。

それはやっぱり人間の想像力が、描かれているものの周りを補完するからなんですよね。

記号が想像力を拡張する

もっと言えばFF6とか、もっと前のドット絵の5とか、ドラクエとかもそう。ドット絵で表現力が今に比べたら低かった時代でも、その世界は広がっていた。補完していたから。

小説っていう別のメディアは、文字しか書いてないじゃないですか。文字しか書いてないけど、そこに世界を広げるっていうのが人間の想像力としてある。だから情報量が多ければ多いほど、受け手の世界が広くなるっていうわけでもないんですよね。

すごく好きな小説が映画化された時に、「なんか違うな」って思う時と、「そうそうそう」ってすごく響く時がある。声が合ってるとか、合ってないとか。小説の中では完璧な世界が描けるんですよね。精緻に描く場合もあれば、ぼかして描く場合もある。それによって人々の想像力が喚起されて、広がっていく。

描きすぎると、その想像力があまり広がらなくなる。

手塚治虫の「記号論」

漫画で言うと、手塚治虫さんが言ってたと思うんですけど、全部は記号として描いているということなんですよね。キャラクターとか、建物とか、物とか、漫画で出てくるものは記号で描いている。ありのままそれを描いてるわけじゃなくて、自分が伝えたいテーマがあって、それを表現するために記号として人や小物を配置している。

その記号化をちゃんと散りばめて、表現として置く。全然関係ないものを置くとカオスになるし、通常すぎてもつまらないし、カオスすぎても意味がわからない。

受け手の感性を理解して作る

人間が情報を受け取る感性を理解して、それを踏まえた上で作る。解像度を上げるっていうのは、情報量を増やすことじゃなくて、受け手の想像力が広がる余白を設計すること。それが創作の解像度を上げる一つの方法かなと思いました。